2019年12月28日

小論文チャレンジ07-2

この絵画から思うところを600字以内で述べなさい。
東山魁夷「道」(※ここではリンクは貼りません)
(2018日本医科大学)

Version 2
 描かれているのは舗装されていない一本の道にみえる。淡い緑色は牧草地のようだ。これをみて私は小説『赤毛のアン』シリーズを思いだす。孤児のアンは、養父母のおかげで学校に通えるようになった。学校では宿敵ギルバートとのライバル心から頭角を現し、教職免許だけではなく大学への奨学金をも手に入れた。アンとギルバートは当時の農村にはめずらしく強い向学心をもっていたのだ。

 ところが、幸せの絶頂でアンの「道」は曲がりはじめる。養父が急病で亡くなったのである。アンは奨学金を断り、地元で先生になることを決意する。「奨学金を手に入れたとき、未来はまっすぐな一本道にみえた。今その道は曲がり角に来たけれど、むこうにはきっと素晴らしい世界があるはずだ」と。働きながら、アンとギルバートは将来の夢について語りあう。彼は医師になろうという決意を固めていた。人類の進歩に少しでも貢献したいというのだ。苦学のすえ、アンは医師となったギルバートと結婚する。

 彼らのように、困難にあっても大志を見失わなければ、最終的に夢は達成できるはずだと私は感じている。私にとって大志とは戦うことだ。何と戦うかというと、病気や苦痛あるいは無知と戦いたいのである。この道をゆけばどうなるものか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ、行けばわかるさ。行くぞー、1、2、3、ダー。
(約600字)

※最後の部分、有隣塾(羽島市の学習塾)様のアイデアです。
※これも自分の意見は最終段落のみ。もっと改善する必要があるでしょうね……。
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小論文チャレンジ07-1

この絵画から思うところを600字以内で述べなさい。
東山魁夷「道」(※ここではリンクは貼りません)
(2018日本医科大学)

Version 1
 描かれているのは舗装されていない一本の道にみえる。淡い緑色は牧草地のようだ。これをみて私が思いだすのは、「道」がキーワードとなっている小説、『赤毛のアン』シリーズである。

 まず、孤児のアンが養父となるマシューとともに馬車で家にむかう「道」がある。自然の美しさを愛し好奇心でいっぱいのアンは「どうしてこの島の道は赤いの」などと、マシューを質問ぜめにする。アンは養父母のおかげで学校にも通えるようになり、これらの質問への答えも見いだしていく。好奇心こそがすべての学問の種なのだ。彼女は学校では宿敵ギルバートとのライバル心から頭角を現し、教職免許だけではなく大学への奨学金をも手に入れた。

 ところが、幸せの絶頂でアンの「道」は曲がりはじめる。突然マシューが亡くなったのだ。アンは奨学金を断り、地元で先生になることを決意する。「夢をあきらめるな」という養母マリラには、「奨学金を手に入れたとき、私の未来はまっすぐな一本道にみえた。今その道は曲がり角に来たけれど、むこうにはきっと素晴らしい世界があるはずだ」と反論した。働きながらも勉強をつづけたアンは大学への進学もはたし、医師となったギルバートと結婚する。

 このように、人生は決してまっすぐな一本道ではない。しかし、好奇心を大切に育て、困難にあっても大志を見失うことがなければ、最終的に夢は達成できるはずだと私は感じている。
(約600字)
※ここまで書いたみたけど、ぜんぜんダメ。自分の意見が少なすぎるでしょう。

※根本的な疑問:そもそも小論文とは何なのか? 何を基準に評価をするのか?
※かりに定義がはっきりしたとして、これって小論文の設問なのか?
 「作品を鑑賞して感想を書け」と言っているわけではないよね?
※かりに小論文の設問だとして、(文学部や芸術学部ではなく)
 医学部の出題としてふさわしいのか? 医師としての適性を判定できるのか?
posted by a cat at 20:41| Comment(0) | 日本語小論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月21日

小論文チャレンジ06

悲しみや恐怖など、否定的な感情を与える芸術作品が好まれることがあるが、それはなぜか。具体例を挙げて論じなさい。ジャンルは問わない。
※字数は推定800字程度
(2013東京藝術大学 美術学部 芸術学科)

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。吾輩は6歳のときにジャングルの冒険に興味をもち、動物たちの絵を描いた。それはゾウをまるごと飲みこんで消化中のボア大蛇の絵であった。ところが、その絵を見た大人たちに「それは帽子だろう」と馬鹿にされ、画家になるという夢を完全に否定された。代わりに文法を学べというのだ。大人というものは、なんてものわかりが悪いのだろう。彼らのせいで吾輩は絵画について語ることはできないので、ここでは文学について考えることにする。

 世界の三大小説といえば、ポーの『黒猫』、サキの『トバモリー』、そして漱石先生の『吾輩は猫である』だ。『吾輩……』はユーモア小説といってもよいが、『黒猫』はまさに恐怖を与える作品である。『トバモリー』の主人公は上流階級の英語を完璧に身につけた、吾輩が最も尊敬する猫である。しかし、最後には猫も英語の先生も死んでしまうため、やはり暗い影のある物語だ。ところが、そうした恐怖や暗さにもかかわらず、作者が亡くなったあとも、『黒猫』や『トバモリー』は世界中で読み継がれている。その理由は、これらの作品が読者にカタルシスを感じさせるからである。

 カタルシスとは古代ギリシャのアリストテレスがギリシャ悲劇を評して使った言葉で、魂が浄化されることを表している。悲劇や暗い小説を鑑賞することで魂が浄化されるのは、人は誰でも人生のどこかで悲劇を体験したり、大きな過ちを犯したりするからである。登場人物(や登場する猫)に感情を移入し、読者はいっしょに浮き沈みや恐怖を経験する。ときには涙を流すことによって、最終的にはネガティブな感情が洗い流されるのである。

 このような理由で、悲しみや恐怖を与える文学作品、あるいはその他の芸術作品が好まれることがあるのだと  私  吾輩 は考える。
(約780字)
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2019年12月20日

小論文チャレンジ05-2

「過去」、「現在」、「未来」、の3つの言葉を、それぞれ、他の言葉で言い換えなさい。そして、なぜその言葉で言い換えたのか、その理由を述べなさい。(600字以上800字以内)
(京都工芸繊維大学 工芸科学部 設計工学域 デザイン工学課程)

京都工芸繊維大学 工芸科学部 website より:
(工芸科学部は)幅広い教養と高い倫理性を有し、自らの構想力と遂行力によって、21世紀の産業、社会、文化に貢献できる理工科系専門技術者を養成することを目的として設置されています。

Version 2
 「過去」「現在」「未来」という3つの言葉を、私は地球や宇宙の歴史のスケールで考えてみたい。そこで私は3つをそれぞれ、「タイプ0文明」「タイプ1文明への移行」「タイプ2文明への移行」と言い換える。なぜなら、天文学者が考えたこのスケールが、最もよく人類の文明の発展度合いを表しているからである。

 まず「タイプ0文明」とは、自然をまったくコントロールできていない、文明以前の状態である。かつての人類、つまりの「過去」の人類は、自然の恵みに頼って生きる狩猟採集の生活をしていた。コムギやコメなどの栽培をはじめ、家畜を飼いならすようになって、少しずつ自然をコントロールできるようになってきた。

 次に「タイプ1文明」とは、惑星レベルのエネルギーをコントロールできるようになった状態である。科学・技術は急速に発展しているものの、人類はまだそのレベルには達しておらず、気候の変動や地震・火山活動を制御することはできない。したがって、「現在」は「タイプ1文明への移行」をしつつある時期だと言える。

 最後に「タイプ2文明」とは、恒星の間を行き来できるレベルになった状態である。たとえ人類が無事にタイプ1文明への移行ができたとしても、天然資源の枯渇や人口の増加によって、いずれ地球に住み続けることはできなくなる。「未来」に人類が存続するためには、「タイプ2文明への移行」を達成し、地球を脱出して他の太陽系を探さなくてはいけない。かりに「タイプ1文明への移行」やその後の「タイプ2文明への移行」に失敗した場合、「未来」に人類が存在していない可能性もある。

 以上のように、地球や宇宙の歴史のスケールから見ると、「過去」「現在」「未来」という言葉を「タイプ0文明」「タイプ1文明への移行」「タイプ2文明への移行」で置き換えることができると私は考える。
(約780字)


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2019年12月15日

小論文チャレンジ05-1

「過去」、「現在」、「未来」、の3つの言葉を、それぞれ、他の言葉で言い換えなさい。そして、なぜその言葉で言い換えたのか、その理由を述べなさい。(600字以上800字以内)
(京都工芸繊維大学 工芸科学部 設計工学域 デザイン工学課程)

Version 1
 時間の流れには時計で測定できる客観的なものと、そうではない主観的なものがある。「過去」「現在」「未来」という言葉は、ヒトがとらえた主観的な時間の流れを表している。私はこの3つをそれぞれ、「記憶」「入力」「出力」と言い換えたい。なぜなら、時間の流れをとらえるのはヒトの脳であり、脳の本質は情報を処理し保存するきわめて複雑なコンピュータだからである。

 まず「過去」は「記憶」と言い換えることができる。「過去」とは、脳が処理した情報をたくわえたものである。コンピュータにたとえればハードディスクに書き込まれたデータであり、必要に応じて検索して、つまりは思い出して使うことができる。祖先から進化の過程を通じて遺伝子に組み込まれたプログラムも一種の過去の「記憶」であり、コンピュータのROMのようなものである。

 次に「現在」は「入力」と言い換えることができる。ヒトはおもに視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚の五感を通じて外界と接触していて、日々新しいデータをインプットしている。これらのデータは言語や映像、あるいは身体感覚として解釈・処理・学習され、必要なものは「記憶」されていく。「記憶」されるのは言語とは限らず、映像や音声などの場合もあるし、自転車の乗り方など身体感覚による技能も含まれている。

 最後に「未来」は「出力」と言い換えることができる。日々大量のデータを「入力」しそれを処理することによって、しだいに脳の中には世界観ができあがる。世界観とは、将来の予測を「出力」するアルゴリズムである。たとえていえば、現在の気圧や風・雲の分布などのデータを使えば、明日の天気が予測できるようなものである。

 以上のように、ヒトの脳を複雑なコンピュータだとみなせば、「過去」「現在」「未来」という言葉を「記憶」「入力」「出力」で置き換えることができると私は考える。
(約800字)

posted by a cat at 15:36| Comment(0) | 日本語小論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする